乗り物である私たち 感想

生物とは利己的な遺伝子が生き延びるために使う乗り物である。生物学者リチャード・ドーキンスさん「利己的な遺伝子」の言説はこのワンセンテンスに集約される。この刺激的なメッセージを、400ページ余り使って大きく展開する。1976年の初版なのに、今読んでも圧倒的な新鮮味がある。

ドーキンスさんは、生物間の縄張り争いや、親が子を保護すること、自己犠牲的な利他的行為も、「利己的な遺伝子」をキーワードに理解できると主張するし、実際にそうしてみせる。だけどそれは、「利己的な遺伝子に従って、利己的に生きるのが自然なんだ」という帰結には至らない。むしろ、「だからこそ利他性を教え込まなければならない」。自分たちを「乗り物」として理解する時、一歩進んだ希望を見出せる。訳は日高敏隆さん、岸由二さん、羽田節子さん、垂水雄二さん。紀伊国屋書店。40周年記念版の初版は2018年2月26日。

門外漢は愚か者ではない

「利己的な遺伝子」は平易な言葉で書かれている。その意図は「初版のまえがき」に示されていて、これが痺れる。

 この本を書いているとき、想像上の読者が三人、私の肩ごしにのぞき込んでいた。いま私は、この人々に本書を捧げたい。三人のうち一人目は、一般的な読者、つまり門外漢だ。(中略)私は、門外漢は専門知識を持っていないものとは見なしたが、愚か者とは見なさなかった。思い切った単純化をしさえすれば、誰でも科学を大衆化できる。私はいくつかの微妙で複雑な考えを、数学的な言葉を使わないで、しかもその本質を見失うことなく大衆化しようと努めた。(中略)生物学はミステリー小説と同じくらい刺激的なものであるべきだと、私は前々から思っていた。生物学はまさにミステリー小説だからだ。(p33-34)

ドーキンスさんは一般的な読者は「門外漢」であるけれども「愚か者」ではないと考えている。だからこそ、「利己的な遺伝子」は面白いんだと思う。それを誰より面白いと思ってるのはドーキンスさんで、思い切った単純化を駆使すれば、その面白さは門外漢にも伝わると信じているからだ。そして目論見は大成功している。

たとえばこんな一節がある。利己的な遺伝子がどうして地球上に生まれたかを考える序盤。太古の昔、有機分子がたゆたう「原始のスープ」から、自分のコピーを作れる「自己複製子」が誕生した驚きを、こう伝える。

これはおよそ起こりそうもない出来事のようだ。たしかにそうだった。それはとうてい起こりそうもないことだった。人間の生涯では、こうして起こりそうもないことは、実際上不可能なこととして扱われる。それが、フットボールの賭けでけっして大当たりを取れない理由だ。しかし、起こりそうなことと起こりそうもないことを判断する場合、私たちは数億年という歳月を扱うことに慣れていない。もし、数億年毎週フットボールに賭けるのであれば、必ず何度も大当たりを取れるだろう。(p59)

なるほど、ほとんど当たらないだろうなというフットボールの予想くじも、数億年毎週すれば当たりそうだ。生物史の壮大なスケールがいつの間にか腹落ちした実感がある。ユニークな比喩、身近なものとのリンク、大胆なモデリング。全編を渡って様々な工夫が施されている。

進化的に安定な戦略

「利己的な遺伝子」の中心的アイデアは、それを読んだことのない人にも伝わっている。利己的なのは生物個体ではなく、もっと根源的な遺伝子である。だから読み進めてみて面白かったのは、利己的な遺伝子を補強する理論。「進化的に安定な戦略」もその一つだ。

進化的に安定な戦略(ESS/ Evolutionarily Stable Strategy)とは、「個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、別の代替戦略に取って代わられることのない戦略」(p138)と定義される。もちろん、ここでもすぐに分かりやすいモデルが導入される。この直後に来るのは「タカ派」「ハト派」の攻撃性に関するモデルだけれど、第9章「雄と雌の争い」で出てくるパートナー選びの例えが面白い。

ある生物の雄に「誠実」戦略と「浮気」戦略、雌に「堅実」戦略と「奔放」戦略があるとする(p265。実際の雌の戦略は「恥じらい」と「尻軽」だが、語感が現代的にそぐわない気もするので変えてみる)。「誠実」は特定のパートナーにきちんと向き合う一方、「浮気」は不特定多数との交際をしようと画策する。「堅実」は誠実なパートナーを探し、「奔放」は不特定多数との交際もOKだと考える。

この生物集団が、「誠実」と「堅実」だけで構成されると考える。非常に理想的に、互いのパートナーを慈しみあって暮らす社会だ。しかし、ここに「奔放」戦略の雌が現れたとする。雄は誰もが「誠実」なのだから、「奔放」はどのパートナーを選んでも誠実な対応を獲得でき、子どもを産んでも「誠実」が育ててくれるとすれば、「奔放」は「堅実」よりも利得が大きい。すると、「奔放」の遺伝子が「得する遺伝子」として集団内で拡大する。

「奔放」型の雌が集団内で広がると、今度は雄の中に「浮気」戦略を取るものが現れる。相手が「奔放」である限り、「誠実」より「浮気」の方が多数の雌を相手にできる。こうして「浮気」の雄が集団内で獲得すると、「奔放」は「誠実」相手に獲得していた利得を失い、むしろ「浮気」に様々な責任を押し付けられることになる。すると、「奔放」戦略の雌は勢いを失って、再び「堅実」戦略が優位になる。

すると、話は冒頭に戻る。「堅実」戦略の雌に「浮気」戦略の雄は相手にされないので、「誠実」戦略の方が優位になり、集団は再び「誠実」と「堅実」に至る。

ドーキンスさんは、この堂々巡りが限りなく続くわけではないと説く。この集団は最終的に、雄の一部が誠実で雌の一部が堅実な安定状態に「収斂」する。計算上では、雄の8分の5、雌の6分の5がそれぞれ誠実/堅実になるという。安定状態に達すれば、基本的に脅かされない。これが「進化的に安定な戦略」だ。浮気も奔放も繰り返される限り少数に追いやられ、けっして安定的とは言えない。とはいえ、その「ズルさ」は短期的に利得を得る可能性が常にある。

利己的な遺伝子とは、こうした「ズルさ」を孕んでいると言える。一方で、進化的に安定な戦略は、お互いの利己性がぶつかり合った結果、どこか利他性を帯びる。このバランス感が面白い。

人間にはシュミレートがある

「利己的な遺伝子」広まったもう一つの有名な概念が「ミーム(Memes)」だ。ドーキンスさんは、人間が生み出した「もう一つの自己複製子」としてミームを位置付ける。自己複製子、つまり利己的な遺伝子が体から体へ乗り移って時間を旅するように、ミームは脳から脳へ乗り移っていくと説く。

例えば「神」という概念はミームである。「利己的な遺伝子」もまさにミームとして数十年間語り継がれている。面白いのは、「ミーム」というミームも、提唱された瞬間から増幅し、世界中の人の脳に染み付いている。

本書を読んでみると、実はミームの議論には続きがあった。遺伝子もミームも自己増殖的であって、それ自体は価値中立的だ。遺伝子と「違って」ミームは利他的であることを望めるかについて、ドーキンスさんはイエスともノーとも言わない。人間は遺伝子の乗り物であり、ミームの乗り物である。でも、人間には、この「運命」に抗う力があるとドーキンスさんは強調する。それがシュミレート(先取りする能力)だ。

(中略)個々の人間は基本的には利己的な存在なのだと仮定したとしても、私たちの意識的に先見する能力ーー想像力を駆使して将来の事態を先取り(シュミレート)する能力ーーには、自己複製子たちの引き起こす最悪で見境のない利己的暴挙から、私たちを救い出す力があるはずだ。少なくとも私たちには、単なる目先の利己的利益より、むしろ長期的な利己的利益のほうを促進させるくらいにの知的能力はある。「ハト派の共同行為」に参加することが長期的利益につながることを理解できるし、同じテーブルに座って、その共同行為をうまく実行する方法を話し合うこともできるはずだ。私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームに反抗する力がある。(p345)

ドーキンスさんは利己的な遺伝子のアイデアを通じて、「人間は利己的になるのは仕方ない」と言っているわけではない。むしろ「利他性を教えよ」あるいはここにあるように「利他性を獲得せよ」と呼びかける。

進化的に安定した戦略で学んだように、遺伝子は「事後的」にしか「ズルさの抑制」を行わない。「こういう社会にしたい」と「事前に」願って進化する遺伝子はない。しかし、人間はシュミレートできる。未来をどうつくるかに目を向け、そのための行動を行える。

遺伝子にとっては、この体をどう使ってやろうかという旅でしかない。でも遺伝子の「乗り物」である私たちは、乗客、あるいは船首である遺伝子に、いかに反抗してやろうかという旅にできる。その意味で、「利己的な遺伝子」はずいぶんロックな学術書だなあと思った。